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ボキャブラリィがない

声優に近づくこと(前)

11月12日。

好きな声優さんのお渡し会に参加してきました。

 

人生で初めて好きな声優さんと喋る機会が突然降ってきて、

気がつくと全部で8回その権利を得ていた。

 

今日はそのうち3回の儀式を受けてきた。

キャパは400人、時間は1時間弱というのだから喋るといっても本当にたかがしれている。

蓋を開けてみると一人あたり約10~15秒だったので、まあおおよそ予想通りといったところで好都合だった。

接近が無いファン人生を過ごす中で、特に物足りなさを感じることもなく、むしろ接近は問題の種なので必要無いとさえ思っていたが、

現実としてあるものはあるものなので、実際に参加する身となったならきちんと前向きに参加したいと思っていた。

無駄に身だしなみに気を使って服を買ったりスキンケア等の美容やトレーニングなどで健康に気をつけたり、少しでも声優の視界を汚さないようにいつもより気を使ったりしたりそんな焼け石に水をかける活動に勤しんだり。

直前はずっと心臓や胃に強い圧迫感を感じて声優に近づくためには寿命を縮める代償が伴うのだなと納得したり

前日まで心も身体も大忙しといった感じで心の準備も一向に進まないまままあっという間にその日は来た。

 一連の雑感をまずまとめておく。

 


1回目終了。

 

 2回目終了。

3回目終了。

 

 

終わってから振り返ってみて気づいた。
3回とも僕は一方通行だった。
彼女に伝える事を伝えるだけ、会話をしていない。
彼女は毎回会話になるような返答をしていたように思うが、僕はまるでただ台本を読んだだけ。
物理的にこそ彼女の目を見つめていたが、その瞳に映る内田真礼の像が現実のものだったのかも定かではない。
彼女の魅力の一つである近い距離感で親しく話すことだというのはラジオを聴いていても至る所から感じる部分で、そして間違いなく今回のお渡し会はそういった文脈上に生まれたイベントだった。
結局何が言いたいのか、
正直今回のイベントでは湧き上がる感情の波に攫われて自分でも何が自分の一番の感情だったのかは分からない。
でも1つ仮説を建てるとしたら、
僕は向き合えなかったのだと思う。
自分がこれまで築き上げてきた好きな声優との距離感には絶対の自信があった。これ以上近づいてはいけないというラインが見えていて、そのラインを決して踏み越えないようにしながら最大限彼女の姿を目に焼き付けてきた。

近づきすぎて自分の感情がノイズをたててクリアに彼女を聴きとることが出来ないことの無いように。

彼女の陽の光を浴びるには充分で、彼女に見えている世界を見るには充分で、彼女には決して触れられない。そんな距離だ。
ただ、この距離にいれば彼女に一切迷惑をかけることもなければ自分も永遠に健全でいられる。Win-Winじゃないか。
僕はただ、彼女の笑顔を見ること、それだけを望んでいた。それ以上は何も望まなかったのだ。

 

 

 

 

ステージに上がり、お渡しの待機列の先頭に立った。

ステージによって隔てられていない空間に一緒にいることがまずキツかった。
あれだけ普段ステージの目の前までは全力で前にいこうとしているのに。

胸に手を当てて深呼吸をする。

はい、どうぞーと声をかけられる。

一歩。

二歩。

自分の作っていた距離を壊して、禁忌を犯しながら声優に近づいていく。

3m。

2m。

顔を上げて最後の一歩を踏み出して好きな声優に触れられる程の距離に入る。

今までで初めての距離まで近づいて、

そして自分の好きな声優を認識する。

 

 

 

 

 

そこにいた姿は神様でも何でもない。
一人の女の子だった。

めちゃくちゃ当たり前で書いていても馬鹿らしい。

そして、

僕はただ、感謝を伝えただけだった。
彼女はううん、というように言葉を続けた。
その言葉自体から受けた衝撃は間違いなく大きなものだった。
しかし、僕がその時最も衝撃を受けていたのはその表情だった。
今まで舞台上で、画面上で、どこでも見たことがない表情をしていた。
真剣な眼差しでまっすぐ僕の目を見て、念を押すように、どこか懇願するように、どこか切ない感情がチラリと覗いているように。僕の持つ言葉で型取るには到底足りない感情が交錯する表情をしていた。
至極単純に受け取るなら、「いやいや、こちらこそ、本当に、」というそのままのニュアンスかも知れない。
思考停止でいつも通り捉えるなら、たまたまその言葉を使っただけで、別に僕の像など結んじゃいない。有象無象の一つに過ぎない僕に対してのランダムなアウトプットの一つが当たったのかもしれない。
或いは。

馬鹿みたいにいつも来て視界に入る自分のファンという文脈に何か意味があるのか

 

 彼女は線引きすることを好む人間だ。

私のファンとそれ以外。

私の味方とそれ以外。

私の家族とそれ以外。

同業者にすら心を開くことが出来ずにいた時期も長かった不器用で頑固な彼女が心を開いていた存在、それがファンだったように思う。

それが、この時代から積み上げられてきたファンとのコミュニケーションによるものなのか、それとも元来持ち合わせていた人間性なのかは今となっては分からないが、彼女はファンという存在を自分の近くに置きたがる。

挙句の果てには“私の”ファンには私だけを見ていて欲しいといった旨の発言をするほどだった。

 それから時は経ち、彼女の味方は増えた。彼女自体も今や目まぐるしい勢いで駆けていく。

特にこの2017年を通して飛躍的な人とのコミュニケーションに積極的になったように感じる。

それは彼女の掲げた目標の達成を意味することで、諸手を挙げて賞賛したいと思う。

少し嘘偽りがあった。正直彼女のコミュニケーション能力が向上すること、彼女が人気を獲得することに対して直接嬉しいと思ったことはない。

でも、確実に彼女の笑顔は増えた。

彼女の発信する言葉に幸せが増えた。

それは何よりも嬉しいことで、幸せを感じることだった。

ともかく、彼女はより器用に生きるようになった。前述のような角の立つ発言もめっきり少なくなった。

彼女の変化に伴ってか、ファン層も変わった。いや、ここに関しては深い繋がりは無いかもしれない。若い層が圧倒的に増え、女性層も増えたように思う。ファンの数も格段に増えてきたのは代々木第一体育館のライブが1番物語っているんじゃないだろうか。

レーベルがスポンサーのラジオも如実に軽くなった。

そもそもこれは厳密に言うと声優ファンの話をしているようでアーティストファンの話になるのでそこは性質上の違いは当然生じるのだが。

 

前置きが随分長くなってしまった。

つまり何が言いたいのかというと、ファンが見えないのだ。

僕は内田真礼しか見ていないし、ファンといったものにはあまり注意を払えていなければ全体像を捉えることにも意味を感じていない。だから、そこに関してはまるで視点が違うしまるで的外れな話をしているのかもしれない。

でも目に見えるような形のファンが減りもっとライトなファンが殆どのこの膨大な集まりに対して、得体の知れないが加速度的に増え続けているファンなる存在について関心を持つことは自然なように思う。

果たしてその上で、初めて実像と結びついた僕という存在はその“レッテル”にはどんな価値があるのか

 

 

 

答えは出ない。
別に答えなんてないんだとも思う。
強いて言うならただ、そこにみた景色に意味を感じた自分がいるだけだ。

 

とにかく、それからも彼女の笑顔は眩しくて、目を開いているだけで精一杯になりながらもそっと寄り添って親しく話す彼女にはそれだけで僕は満たされた。ただ、感謝を伝えると決まってその表情をする。
その目が、ずっと僕を捉えている。

 

 

こうしてサイエンスホールでの長いようで短い1日を終えた。

そこは奇しくも3年前、僕が初めて彼女に、
“一人の女の子”に出会って好きになった場所だった。